人生は無常なり
尾形家の祖、道伯は浅井長政に仕えた人です。
「雁金屋」が栄えたのは、東福門院の引き立てのあったお陰と
いわれています。
浅井長政の妻は信長の妹、於市の方で、
於市にはご存じのとおり三人の娘(茶々、初、阿江与)がおりました。
尾形家は道伯の子、宗伯(光琳・乾山の父)の時代にはすでに
呉服屋を始めておりましたが、
宗伯は浅井家の家来筋ということで
この三方のお輿入れの際にも呉服を用立てしていたそうです。
その後も徳川家(秀忠)に嫁した阿江与と、
その娘和子(後水尾天皇の女御となり後に東福門院と名乗るようになる)
の引き立てはことのほか大きく、それ故「雁金屋」は繁盛を極めることができました。
しかし逆に、お得意様が限られていたことがあだとなり
時代の波が雁金屋を飲み込んでいきます。そしてやがて没落・・
宗謙も大変絵画の才があった人だったようで、
光琳は幼い頃より父に絵のたしなみを受けていたそうです。
ところが、安泰だった尾形家に突然不幸が襲いかかります。
それは、1671年から始まるのですが、身内が次々亡くなったのです。
光琳18歳(乾山13歳)の時には末の妹を、さらにその3年後にも
二人の妹と母を亡くしているのです。その後父の宗謙も亡くなりました。
家族の相次ぐ死はその後の二人の人生観に大きな影響を及ぼしたことは
容易に想像できます。
人生は無常なり・・・
京都の下鴨神社に行くと、御手洗川のほとりに 「光琳梅」があります。
さほど大きくもなく、しかも紅梅だけでしたが、そこに立った時にふと、頭をかすめたことは、
鴨長明の「方丈記」の一節
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」
光琳は水を多く描きました。
国宝の「紅白梅図屏風」の中央を横切る川の流れにも、
光琳はおそらくこの無常観を描きたかったのではないか・・・
あの水の渦に込めたのは、もしかしたら
人間の持つ、ドロドロと交錯した感情的なものだったのだろうか・・・
いや、遊び人の光琳だから、そのようには考えることはないかも・・・ などと
勝手に想像してしまいます。
しかし、光琳以上に思慮深い性格の乾山の場合は
間違いなくそう感じたと思います。
27歳の若さで早くも、
仁和寺の門前に「習静堂」を建て隠棲の生活に入ったほどですから。
世間を離れ、思索の生活を送るうちに、
禅僧のような境地に至ったということなのでしょうか・・
(参考:「光琳乾山兄弟秘話」)
