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日本の四季は梅から始まる

 
  
    
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両岸に曲線の渦を巻きながら流れる水の流れ・・・

白梅は老木のようです。幹は太く、そして古い苔も見られます。

対する紅梅はなんとも若々しい風情を漂わせています。

枝も細く、華やいだその花弁はまるで乙女の頬のよう・・・

金の「明」といぶし銀の「暗」。

樹幹の「力強さ」に対し、一方、花弁のいとおしくなるほどの「繊細さ」。

「直線」的な枝と、ゆるやかに渦を巻く流水の「曲線」。

「艶麗」なる紅梅に対し、白梅のあふれんばかりの「気品」。

対照美の頂点ともいえる 尾形光琳作 国宝 「紅白梅図屏風」。

最近の研究によると、この「金箔」に見える背景も実は、

「金泥」だということです。

謎多き作品ですが、この作品の原画は熱海のMOA美術館にあります。

新しい年が明け、あたりに梅の香が漂う頃、MOA美術館の中では

光琳の梅がそっと、雅な春の香りを運んでくれます。

一年に一回だけ、つかの間の楽しみです。

   

尾形光琳といえば、「紅白梅図屏風」。

言わずと知れた国宝です。 

 

 尾形光琳(16581716)の生家は、「雁金」を屋号とする京都有数の呉服商を

営んでいました。父親の代ではお得意様に徳川家ゆかりの東福門院などもあり、

大変裕福な暮らしぶりでありましたが、時代の流れと共に、雁金屋も没落。

その後は光琳、そして弟の乾山の運命を大きく変えることなります。

しかし、呉服商の家に生まれ育った光琳の洗練された美的感性は、

その後大きく開花します。

47歳の時には新たな境地を見出すため、京都から江戸に住まいを移しました。

 

 光琳の描く「京の雅」に江戸の人は酔いしれました。

それまで江戸に於いて主流であったのは御用絵師の「狩野派」です。

それとは一風異なった光琳の作風を、江戸の人々はこぞって受け入れました。 

しかし何故か、光琳は5年の後には京に戻ってしまいます。

「紅白梅図屏風」などの後世に残す大作が生まれたのは、これから後のことでした。

 

 光琳は「水」や「梅」のデザインを好んで描きました。光琳の手による

水の意匠は今にも動き出しそうな、不思議な迫力がありました。

また 梅の花びらをひとまとまりに描く方法など、この天才的な装飾感覚は

その後、着物や和菓子、団扇にいたるまでさまざまな分野の意匠に

大きな影響を及ぼすようになります。

水の模様に代表されるこの「光琳模様」。

実は、現代の生活の中において、意外と多くの場面で見かけているのです。

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◆ 琳派と狩野派の違い

狩野派と琳派の作品とでは画面作りに違いがみられます。

狩野派の花鳥画では、岩、池、鳥、遠山などをあくまでも庭、山野の景色として作り出します。

一方、宗達などの 琳派では、金箔を貼った画面を直接草花のみで構成します。

それは自然な庭の景色とは違い、独自の構成で、いわば架空の空間を作り出そうとします。

          (琳派の美術 より)  

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私淑

 琳派の特徴の一つとして、時代を超えた「私淑」があります。

これは狩野派や土佐派などに見られるような師弟関係は持たずに、

あくまでも「私淑」によってその美を伝達してきた、ということです。

創始者といわれる第一期の本阿弥光悦・俵屋宗達、

第二期の尾形光琳・乾山兄弟は京都生まれの京都育ちです。

一方第三期の酒井抱一は姫路城主の第二子でありましたが

江戸に生まれ江戸に没した画家です。

しかし、いかに師弟関係ではなく、私淑によるものといえども

光悦・宗達・光琳が血縁関係にあったことを思うと、

光悦に始まる前期の100年間と、光琳から抱一までの100年間とでは

若干、意味が異なる気が致しました。

そこにはむしろ、私淑というより師弟関係よりももっと強い、血縁による 「絆」を感じるからです。

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本阿弥家は刀の鑑定、磨砥、浄拭 を家業としていました。

日蓮宗叡昌山本法寺開祖の日親に帰依し、「本光」と名乗るようになり、

以来、子孫の男子には「」がつくようになりました。光悦は本光から数えて3代目になります。

光悦の父、光二は刀剣の払拭や鑑定の技に長じていたので、今川義元や織田信長の寵愛をうけ、

加賀前田家からも数万石で召抱えられた人物で、当時の徳川家康は竹千代と呼ばれていた時代でした。

光悦は父のお供をすることも度々あったそうで、それゆえ家康は光悦のこともよく知っていたそうです。

(後に、本阿弥光悦が洛北鷹が峰に「芸術村」を作ったのも家康より土地を賜わることができたから)

◆ 光悦は、父、光二の兄弟の娘と結婚します。実は、俵屋宗達も同様に、

その姉妹と結婚しているのです。

◆ 一方、尾形家は浅井長政に仕える身で、

尾形家の祖といわれる道柏は、光悦の姉と結婚しております。

尾形光琳・乾山兄弟は道柏のひ孫にあたりますので、この間には確かに時間は流れていますが、

琳派を代表する前期(1期・2期)の三人が血縁にあったことは間違いありません。

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ここに、DNAの持つ驚異的な力を感じます。「血縁が、時を越えてその美を伝達してきた・・・・・」

これは、琳派がもつ大いなるなロマンの一つ・・・不思議な感動を覚えます。

人生は無常なり

尾形家の祖、道伯は浅井長政に仕えた人です。

「雁金屋」が栄えたのは、東福門院の引き立てのあったお陰と

いわれています。

浅井長政の妻は信長の妹、於市の方で、

於市にはご存じのとおり三人の娘(茶々、初、阿江与)がおりました。

尾形家は道伯の子、宗伯(光琳・乾山の父)の時代にはすでに

呉服屋を始めておりましたが、

宗伯は浅井家の家来筋ということで

この三方のお輿入れの際にも呉服を用立てしていたそうです。

その後も徳川家(秀忠)に嫁した阿江与と、

その娘和子(後水尾天皇の女御となり後に東福門院と名乗るようになる)

の引き立てはことのほか大きく、それ故「雁金屋」は繁盛を極めることができました。

しかし逆に、お得意様が限られていたことがあだとなり

時代の波が雁金屋を飲み込んでいきます。そしてやがて没落・・

宗謙も大変絵画の才があった人だったようで、

光琳は幼い頃より父に絵のたしなみを受けていたそうです。

ところが、安泰だった尾形家に突然不幸が襲いかかります。

それは、1671年から始まるのですが、身内が次々亡くなったのです。

光琳18歳(乾山13歳)の時には末の妹を、さらにその3年後にも

二人の妹と母を亡くしているのです。その後父の宗謙も亡くなりました。

家族の相次ぐ死はその後の二人の人生観に大きな影響を及ぼしたことは

容易に想像できます。

人生は無常なり・・・

京都の下鴨神社に行くと、御手洗川のほとりに 「光琳梅があります

さほど大きくもなく、しかも紅梅だけでしたが、そこに立った時にふと、頭をかすめたことは、

鴨長明の「方丈記」の一節

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」 

光琳は水を多く描きました。

国宝の「紅白梅図屏風」の中央を横切る川の流れにも、

光琳はおそらくこの無常観を描きたかったのではないか・・・

あの水の渦に込めたのは、もしかしたら

人間の持つ、ドロドロと交錯した感情的なものだったのだろうか・・・

いや、遊び人の光琳だから、そのようには考えることはないかも・・・ などと

勝手に想像してしまいます。

しかし、光琳以上に思慮深い性格の乾山の場合は

間違いなくそう感じたと思います。

27歳の若さで早くも、

仁和寺の門前に「習静堂」を建て隠棲の生活に入ったほどですから。

世間を離れ、思索の生活を送るうちに、

禅僧のような境地に至ったということなのでしょうか・・        

 

(参考:「光琳乾山兄弟秘話」)